アメリカ独立革命

 

「我に自由を与えよ。しからずんば、死を。自由は鮮血をもって買わざるべからず」

アメリカ独立運動の闘士パトリック・ヘンリ(1736〜1799)この言葉は、日本の明治初期の自由民権運動家のスローガンともなった。

 

 アメリカの13の植民地がイギリスからの独立を達成した革命。世界経済の成長期にあって、保護貿易の立場に立ち、輸出産業を育成し、貿易差額によって国富を増大させようとした近世国家の管理経済であるイギリス本国の重商主義的圧迫に対し、植民地側はボストン茶会事件や大陸会議開催などの抵抗を行い、1775年、戦闘に突入、翌年独立宣言を発表。1781年ヨークタウンの戦いで大勝し、1783年パリ条約により独立を達成、8年間の独立戦争は終結した。

 

イギリスの植民地であったアメリカが独立に立ち上がったきっかけは、つぎつぎに植民地に課せられた税金に対する不満からであった。

 

すなわち、「7年戦争」(1756年から1763年まで、プロイセンのフリードリヒ大王とオーストリアのマリア・テレジアとの間で、シュレジエンの領有をめぐって始まった戦争で、フランス・ロシアがオーストリア側、イギリスがプロイセン側についたが、インドやカナダの海外植民地でイギリスがフランスを破った)での莫大は負債を抱えていたイギリス議会は1765年3月22日、北米でのイギリス軍駐屯経費36万ポンドのうち、3分の1を植民地アメリカに負担させるために、商業上のすべて証書にはじまり、新聞・カレンダー・パンフレットからカルタに至るまでに印紙を張ることを義務付けた「印紙法」を制定する。

 

これに対してジェファーソンとともにヴァージニア代表であったパトリック・ヘンリ(29歳。リンカーンと並んで合衆国最大の演説の名手のひとりに数えられている)が、1765年5月29日ヴァージニア植民地協議会に、「代表を送っていないイギリス議会によっておこなわれる課税は不当であり、植民地人の権利と自由をおかすものだ」として反対の狼煙を上げる印紙法反対決議案を提出する。決議案提出は、イギリス軍の駐屯を必要としない状況とも相俟って、「代表なければ課税なし」とのキャッチコピーとともにまたたくまに全植民地にひろがって反対運動を巻き起こす契機になり、イギリス商品の不買運動までに発展した(印紙法は翌年の1766年3月に廃止される)

 

1773年5月イギリス議会は、イギリス東インド会社(17世紀初頭に東インド〔東洋〕貿易とその植民活動を目的として設立された西欧各国の独占的特許会社)破産の危機を救済するため、会社に植民地の茶の販売の独占権を与える法律である「茶法」を制定するが、アメリカ植民地の人々は、全ての茶に税金をかけるイギリスのやり方に反発した。そして同年12月16日、インデアンの姿に変装した「自由の子」らのメンバーがボストン港に停泊中の3隻のイギリスの貨物船に乗り込み、茶箱342個を海に捨てたのである。いわゆるボストン茶会事件の発生である。イギリスは事件を植民地政策への反抗と位置づけ、他の植民地に対する見せ付けの意味も含めて、翌1774年3月、ボストン港の閉鎖を始め、マサチューセッツ植民地の自治権の剥奪などの無理難題を押し付ける。

 

これに対してアメリカは、1774年9月5日、フィラデルフィアにジョージアを除く、全アメリカ植民地の代表が集まりイギリス本国の圧制に反対する(アメリカ独立のための最高機関となる)第1回大陸会議が開かれ、ここにイギリス本国と植民地アメリカの対立は決定的となる。

 

そうした中、ヘンリは1775年3月23日、ヴァージニア植民地協議会に民兵の訓練強化と防備態勢の確立案を提出した。ここで本国イギリスとの和解と平和の道をもとめる保守派に反対されるとヘンリは、「もはや希望の余地はまったくなく、自由になるには戦わなければならないのだ」と独特の甲高い声で絶叫し、革命運動に決定的な影響を与えたイギリスとの武力衝突(戦争)が避けられないことを説く、以下の有名な文句を発したのである。

「鉄鎖(てっさ)と奴隷化の代価であがなわれる(ある物と引き換えに別の物を得ること)ほど、生命は高価であり、また平和は甘美(かんび=うっとりと快く楽しいさま)なものでしょうか。全能(どんなことでも行える能力を持った)の神よ、かかることをやめさせてください。わたしは他の人がいかなる道をとるかは知りません。しかし、わたしに関するかぎり、わたしに自由をあたえてください。そうでなかったら、わたしに死をあたえてください(Give me Liberty or Death)(中屋健一訳)

 

さて、マサチューセッツ州のボストンに駐屯していたイギリス本国軍は、ボストン郊外のコンコードに植民地民兵の武器・弾薬が相当集められているという情報をキャッチ、押収のため1775年4月19日早朝、約800名兵士をコンコードへ向けて派兵、途中のレキシントンで植民地民兵と衝突、ここに8年間のアメリカ独立戦争(1775〜1783)の火ぶたが切って落とされたのである。イギリス軍はレキシントンコンコードに進撃したが待機していた民兵の反撃にあい、ボストンに退却を余儀なくされた。

 

 レキシントンとコンコードでの戦いの知らせは、たちまち全植民地に伝わり、各地から義勇兵が続々と派兵された。同年5月には第2回大陸会議が開かれ、6月15日に(後の初代アメリカ大統領)ジョージ・ワシントン(43歳。1732〜1799。ヴァージニアの富裕なプランター〔綿花・タバコ・ゴム・コーヒー・紅茶などを栽培する大規模農園の経営者〕の子に生まれ、兄の死後農場を継いだ。フレンチ=インディアン戦争〔1755〜1763〕にイギリス軍少佐として従軍し、その後ヴァージニア植民地議会議員となる)を植民地統一軍総司令官に任命した。

 

ところで、独立戦争が始まった当時の植民地内での勢力分布は、独立派(愛国派、パトリオット〔Patriot=愛国者の意〕)はプランター・自営農民・商工業者を支持母体としており、その勢力は植民地人口の約3分の1であった。独立に反対する国王派(忠誠派、ロイヤリスト)は、高級官吏・大商人・大地主らが支持しており、その勢力も約3分の1を占めていた(残りの約3分の1は中立派か無関心)

 

 拮抗した状況を一変させたのが、イギリス生まれの文筆家・革命思想家で1774年にアメリカにわたったトマス=ペイン(1737〜1809)が書いた小さなパンフレット『コモン=センス(常識)(1776年1月出版)であった(彼はまた、『人間の権利』でフランス革命を擁護した)。独立の必要と共和政の長所を力説し、アメリカが独立して共和国になることが世界の常識であると説いたこのパンフは、たちまち12万部のベストセラーになり、全植民地を席巻、独立運動を大いに高揚させた。

 

 独立戦争開始1年後の1776年7月4日、フィラデルフィアで(後の第3代大統領)ジェファーソンらが起草した『アメリカ独立宣言全文を発表した(宣言起草者5人の中には、新聞発行や出版業等のジャーナリズムの分野で活躍したほか後に初代駐仏大使などを務めたベンジャミン・フランクリン〔1706〜1790〕や後の第2代大統領ジョン=アダムスらがいた。なお、独立宣言は、黒人奴隷が独立戦争に参加したにもかかわらず、奴隷制度に寄生する地主や商人たちの主張によって「奴隷貿易の禁止」という草案の1項は、完全に抹消された。また生命・自由・幸福の追求という天賦〔てんぷ〕の人権を明記しながら、先住民インデイアンの権利については何一つ考慮しなかった

 「われわれは、次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられている」という有名な文で始まる『独立宣言』は、まず基本的人権・人民主権・革命権などを主張し、次に当時のイギリス国王ジョージ3世(在位1760〜1820)の暴政を列挙し、最後に13州の独立を宣言したもので、後のフランス革命の『人権宣言』とともに近代民主政治の基本原理となったが、独立宣言の最初の部分の基本的人権・人民主権・革命権などの主張には、イギリスの啓蒙思想家ロックの思想的影響が強く表れている。 

 

説明: 説明: 独立宣言

独立宣言の草案

 

 この間独立軍は、初め武器・弾薬・食料の不足などで苦戦を続けながらもワシントンの指揮下で奮戦し、1777年10月のサラトガの戦いでイギリス軍を降伏させ、同年11月、大陸会議は、事実上のアメリカ最初の憲法である「アメリカ連合規約」を承認し、「アメリカ合衆国(United  States  of  America)」の名称を採択する。

 

 独立軍の攻勢を目の前にしたフランスのルイ16世がフランクリンの要請を受け1777年12月17日にアメリカが独立国であることを承認、米仏同盟を結んで独立軍に軍事費の支援を行なう(翌1778年12月ルイ16世は支援ため生じた赤字を削減するため赤字国債を発行する)とともにイギリスに宣戦、1779年にはスペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦するところとなる。

 

 さらには、フランスの自由主義貴族のラ=ファイエット(1777〜1781)らが義勇軍を率いて独立軍に参加、またポーランドの愛国者であるコシューシコ(1776〜84年にワシントンの副官として活躍)、そしてフランスの空想的社会主義者のサン=シモンなどのヨーロッパ人が義勇兵として独立軍に参加した。

 

 1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって、ロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガルがアメリカと「イギリスの中立国船舶の規制に対抗する中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資の通商の自由」を主張する武装中立同盟を結んだが、この条約はイギリスを孤立させと独立軍の士気を大いに高める効果を持った。

 

このように国際情勢が独立軍に有利に展開する中で、1781年10月19日、ついにヨークタウンの戦いで、米仏連合軍に包囲された7、000のイギリス軍は降伏、ここに独立戦争の大勢は決せられた。

 

 そしてイギリスは1783年9月3日のパリで、7年前に独立宣言を発したアメリカと条約(パリ条約)を締結、合衆国の完全独立を承認し、合衆国にミシシッピ川以東のルイジアナを割譲し、イギリスとアメリカの友好関係が樹立されたのである。また同日イギリスは、アメリカ独立戦争に参戦したヨーロッパ各国とも講和条約を締結するところとなる。   

 

 1787年9月17日、ワシントン(55歳)が議長をつとめる憲法制定会議(会議の冒頭ワシントンは、「賢明で正直な憲法をつくろうではないか。事の成り行きは神の御心〔みこころ=他人の心を敬っていう語〕にゆだねよう」と述べた)で憲法草案が確定され、以後1年間各州で論戦が開始される。

 

 1788年6月21日、ニューハンプシャーが9番目の憲法を批准、ここに合衆国憲法の発効が確定し、翌1789年3月4日、新憲法の下での初のアメリカ議会が開かれ、4月30日、初代アメリカ合衆国大統領にジョージ・ワシントン(57歳)が就任する(7月に合衆国で始めての行政官庁である国務省が設置される。初代長官はジェファーソン

 

参考文献『クロニック 世界全史』(講談社)