硫黄島(1ヶ月余の死闘)

 

 

 

 

「ずっと前から、そして今も、人々は政治家のために殺されている」=太平洋戦争の硫黄島(いおうとう・いおうじま)での攻防を描いた映画「父親たちの星条旗」の監督、クリント・イーストウッドが仏紙に述べた言葉。

 

湧水(わきみず)は全くなく、全部雨水を溜(た)めて使います。それですからいつも、ああツメたい水を飲みたいなあと思いますが、どうにもなりません」兵士たちが米軍だけではなく、水とも戦っていたことだ。総指揮官の栗林忠道中将は家族への手紙で、渇水のつらさを何度も訴えている(「(梯〈かけはし〉久美子『散るぞ悲しき』新潮社)

 

 「妻へ 縁有つて婚姻(こんいん)してより十有余年、此(こ)の間貧しいながら5人の子宝を得て楽しい団欒(だんらん)であつた」=敗戦の約半年前の1945年3月に、太平洋の硫黄島で戦死した日本兵の「遺書」の一節だ。やはりこの島で戦死した別の兵士が、妻あてに書いた。「悲壮なる決心をするだけに子供こひしさに心の鬼も防ぎ得ず。未練がましくも幸ひ便りする機会を得て書き連ねる——常日頃 我いとし子を見つめては 心の悪魔払ひ来りし」(『昭和の遺書』角川書店)。それぞれの思いを抱きつつ倒れた(06年12月08日付『朝日新聞』−「天声人語」)

 

 慰霊なき、1万3000柱=硫黄島で日本軍約2万人が戦死、今も1万3000柱以上の遺骨がそのまま残されている(09年6月末までに収集された遺骨は8664柱にとどまる)。滑走路の下にも地下壕(ごう)が多数あって遺骨が埋まっている。ある遺族は「遺骨が帰ったときこそ、硫黄島の戦いは終わる」と話してくれた。島は日本の領土だ。そこでさえ遺骨収集ができなくて、ほかのどこでできるのか。彼らは国が進めた戦争の犠牲者であり、しかるべき方法で慰霊をするのは国の責任ではないのか。「戦後」どころか戦争もまだ、終わっていない。カチカチという音が耳から離れない。米軍記念碑のそばにひっそりと日本側の慰霊碑があった(07年01月04日付『毎日新聞』)

 

登場人物への感情移入は映画の楽しみの一つだろう。クリント・イーストウッド監督の米映画「硫黄島からの手紙」では、二宮和也さん演じる兵士「西郷」に共感した。兵士として褒められたとき「ただのパン屋」と答える場面が記憶に残る。平和に暮らしていた普通の人がある日、東京都品川区とほぼ同じ広さの島で敵と戦う。2万人以上が戦死し、生存者は千人余だった。米軍でも約7千人が戦死している。終戦から7年後、蒼樹社から発刊された「硫黄島決戦」に載っている生還兵士の手記を読むと、食料も水もなく、銃などの武器も不良品が多かったという。兵士たちが「どんなに悲しんだか知れない」と綴(つづ)られている。映画で渡辺謙さん演じる栗林忠道中将から「戦争の勝ち目は絶対ない」と言われた兵士の話も出てくる。中将は米国の軍需産業の力を説明し「こんな大切なことを戦争計画者たちは一つも頭に置いていない」と嘆いている。兵士の悲しみと指揮官の嘆き。為政者は何をしていたのかと思う。防衛省が誕生。自衛隊の海外活動が本来任務になった。米軍との一体化が一層進むのだろう。硫黄島の近海で06年11月、海上自衛隊と米海軍が東シナ海の尖閣諸島に中国が侵攻したことを想定した演習を行ったという。二宮さんは映画を見て「戦争はいけないと思ってくれれば、それだけでいい」という。それだけではすまされない状況になってはいないか、気になる(07年01月10日付『東京新聞』−「筆洗」)

 

硫黄島いおうとう。国土地理院は07年6月18日、硫黄島の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更したと発表した。これに伴い「北硫黄島」「南硫黄島」も、「きたいおうとう」「みなみいおうとう」にそれぞれ変更された。 地元で旧島民が、「いおうとう」と呼んでいたことから、小笠原村が国土地理院に地名修正を要望していたは、東京都・小笠原おがさわら)諸島硫黄列島を中心に、西之島、さらに日本最南端の沖ノ鳥島、南鳥島を含む島々の総称の南西約200キロ東京とマリアナ米軍基地との中間)に位置する硫黄列島中の主島(火山島)

 

現在、東京都小笠原支庁小笠原村に属す。

 

東京の南約1250キロメートルに位置し、周囲約22キロメートル、面積23.4平方キロメートル。北東から南西に伸長した段丘が発達し、中央部は平坦(へいたん)だが、北東部に標高120メートルの東山、南西端に標高161メートルの摺鉢山(すりばちやま)ある。

 

太平洋戦争の末期、日米両軍の1か月余に渡る島嶼(とうしょ)攻防戦の激戦地硫黄島の戦い)。その激戦のため摺鉢山は変形したとまでいられた。

 

すでに米軍に落ちていたサイパン島のマリアナ基地からの米軍はB―29爆撃機による日本本土空襲の中継基地として、またB−29爆撃機の掩護(えんご)戦闘機隊(戦闘機P−51)の出撃基地とするため同島の攻略を企図した米軍は45(昭和20)年2月16日同島に対する艦砲射撃を開始し、19日より多数の艦艇と航空兵力の援護のもとに海兵2個師団の上陸を開始、21日にはさらに1個師団を上陸させた。

 

栗林忠道(くりばやしただみち。1891〜1945。長野県生まれで、陸軍大学校卒。騎兵第1旅団長などをへて44年第109師団長となり硫黄島の守備にあたる。45年上陸してきたアメリカ軍とたたかい、守備隊は全滅。同年3月26日戦死と認定され、大将に進級した。享年55歳中将の指揮する約2万3,000人の日本軍守備隊は、島内に無数の地下道を張り巡らし、徹底した陣地持久戦によって抵抗したため、米軍の損害が続出したが、圧倒的な砲爆撃に支えられた米軍の猛攻によって、3月末には日本軍の抵抗は終わりを告げた(3月17日決別の電文を東京に打電した栗林中将は10日後の27日に参謀とともに拳銃で自決)。陥落後の翌4月からは戦闘機P−51による本土攻撃が始まった。

 

 

栗林中将の決別の打電文

 

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戦局遂に最期(さいご)の関頭(かんとう=物事の大きな分かれ目。瀬戸際)に直面せり、(45年2月)17日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を祈念しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。

敵来攻以来、想像に余る物量的優勢をもって陸海空より部下将兵の勇戦は真に鬼神(きじん=荒々しく恐ろしい神)をもなかしむるものがあり。

しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃(たお)れたためにご期待に反しこの要地を敵手にゆだねるやむなきに至れるは、まことに恐懼(きょうく=おそれ、かしこまること)に堪えず幾重いにもお詫(わ)び申し上ぐ。

特に本島を奪還せざる限り、皇土(こうど=天皇の治める国土)永遠に安からざるを思い縦(たと)ひ魂魄(こんぱく=死者のたましい。霊魂)となるも誓って皇軍の捲土重来の魁(さきがけ)たらんことを期す。

今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。

ここに将兵とともに謹んで聖寿せいじゅ=天子の年齢・寿命をいう語)の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申し上ぐ。

防備上に問題があるとすれば、それは米国との物量の絶対的な差で、結局、戦術も対策も施す余地なかりしことなり。

なお、父島、母島等に就いては同地麾下(きか=ある人の指揮下にあること。また、その者。部下)将兵如何なる敵の攻撃をも断固破砕しうるを確信するもなにとぞよろしくお願い申し上げます。

終わりに駄作を御笑覧に供す。なにとぞ玉斧(ぎょくふ=人に詩や文章の添削すること)をこう。

 

 

国のために重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 七たび生まれて矛を報らむぞ

醜草の島にはびこるその時の 国の行く手一途に思う

 

 

 

 

45年2月23日、頂上に星条旗を立てようとしている6人の米海兵隊員の写真は、新聞の1面を飾り、米国民を熱狂させ、6人は「米国の勇気の象徴」となった。

 

 

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6人のうち生き残ったのは3人だけであるが、米ジャーナリズムの最高の栄誉であるピュリツァー賞(1917年にアメリカの新聞王・ジョゼフ・ピュリツァーによって創設されたもので、現在、ジャーナリズム【14部門)】文学【6部門】及び音楽【1部門】の分野から構成されている)を受賞した。

 

あまりに見事な構図のために、やらせ疑惑まであった。

 

実は山頂には2度国旗が揚がり、最初の旗は記念品として保存するために、また旗が小さかったため降ろされ、駆けつけたAP通信の報道写真記者ジョー・ローゼンソール06年8月20日米・サンフランシスコ郊外で老衰のため94歳で死去がフィルムに収めたのは代わりの大きめの星条旗の方だった。風にはためく星条旗は、後に「世界で最も美しい戦争写真」ともてはやされ、切手や銅像にまでなる。

 

その上、写真は大量に複製され、勝利と愛国心の象徴として米国民をはじめ世界に配信されたほか、米国の第7次戦時国債の公募ポスターとして350万枚以上も印刷されたといわれている。さらにこの写真は、54年に無名の戦死者が眠る国立アーリントン墓地Arlington National Cemeteryに「硫黄島メモリアル」として高さ20メートルのブロンズ像となっている。

 

しかしこのとき、日米の戦闘はまだ続いており、米軍の死傷者は、日本軍(戦死者19,900人。戦傷者1,033人)を上回る28,686人(戦死者6,821人。戦傷者21,865人)を数えた対日戦において米軍が反攻に転じて以降、米軍の損害【攻撃側】が日本軍【防衛側】のそれを上回った唯一の地上戦としても有名である)。その後、6月末まで日米の死闘は続き、日本人の生還者は僅か1,023人に過ぎなかった(防衛庁『戦史叢書』「中部太平洋陸軍作戦」−2−)

 

6人中生き残ったうちの1人ジョン・ブラッドリーは94年に世を去ったが、息子のジェイムズがノンフィクション『父親たちの星条旗』(『硫黄島の星条旗』文春文庫)を著している。

 

同書はクリント・イーストウッドClint Eastwood 1930年5月31日〜。冷徹な一匹狼役で知られるアメリカの映画俳優。映画製作会社マルパソを主宰し、監督、製作も手がけている。また、1986〜88年には、カリフォルニア州カーメル市長をつとめた監督によって映画化「父親たちの硫黄島」「硫黄島からの手紙」の2部作)され、06年秋と冬に公開された。

 

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また、06年12月9日には、フジテレビ系列で「土曜プレミアム硫黄島もうひとつの感動ドキュメンタリードラマ『戦場の郵便配達』」が放送された。

 

 

 

 国内では、栗林忠道の人物像を描いた『散るぞ悲しき』が05年の夏に出版された。

 

なお、硫黄島は、16〜17世紀以来、欧米人によって発見されたが、絶海の小島ということから、長く無住・無主の地として放置されていた。1887(明治20)頃から、日本人が島や周辺で硫黄採取や漁労を行うようになり、1891(明治24)年9月10日至り硫黄列島として小笠原の所轄に編入した(勅令第190号)。明治末期ごろから日本の内地からの移住がはじまり、サトウキビの栽培に成功した。昭和初期にはコカノキの栽培でも知られるようになった。1944(昭和19)年には1164人住民を数えたが、戦局のである悪化で、同年中には全員が日本内地に引き揚げた。敗戦後はアメリカの施政権下にあったが、1968(昭和43)年に小笠原諸島とともに日本復帰した。

 

 

島嶼所属名称ノ件(明治24年勅令第190号)

 

東京府管下小笠原島南南西沖北緯24度零分ヨリ同25度30分東経141度零分ヨリ同141度30分ノ間ニ散在スル3島嶼ヲ小笠原島ノ所属トシ其中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ其南ニ在ルモノヲ南硫黄島其北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス。

 

 

島は68年6月に日本へ返還され、現在は、海上自衛隊硫黄島航空基地が置かれており、23.4平方キロメートルの硫黄島の約40%の約9.5平方キロを、海上自衛隊第4航空郡が管理している。地熱が高いため、各施設には種々の地熱対策が講じられている。主滑走路は、2650m×60m。その他、2650m×30mの平行誘導路が、主滑走路閉鎖時の緊急滑走路として整備されている。なお民間人は自由に行き来できない。

 

また、アメリカの空母艦載機による夜間発着訓練(NLP=Night Landing Practiceが行われている。

 

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硫黄島滑走路、島内移設へ=地下に眠る遺骨捜索要望受け=太平洋戦争の激戦地として知られる硫黄島にある海上自衛隊管理の飛行場滑走路について、政府は、島内の別の場所に移設する方向で検討を始めた。地盤の隆起や沈下で運航に支障がでてきかねないため。島内に張り巡らされた地下壕の跡などには今も1万3千人以上の戦没者の遺骨が残されており、移設後、滑走路の地下の捜索・収集を進めたい意向だ。

旧日本軍は戦時中、米軍来襲に備えて硫黄島の地下に陣地を築き、トンネルを張り巡らせた。その長さは約20キロに及ぶといわれる。米軍は壕の開口部をふさぐなどして、日本軍の将兵を殺害した。このため、厚生労働省の把握できていない壕が島内のいたる所にあって、その中に戦没者の遺骨が多数あるとみられている。

現在の滑走路は幅60メートル、長さ2650メートル。防衛省によると、米軍が1945(昭和20)年、旧日本海軍の元山(もとやま)飛行場を利用して設置した。その後、68(昭和43)年に硫黄島を含む小笠原諸島が米国から日本に返還され、改修を経て、70年5月9日、防衛庁の飛行場となった。米海軍航空母艦の艦載機の夜間発着訓練(NLP)にも使われている。

硫黄島周辺はもともと火山活動が激しい。防衛省によると、93年に大規模な改修をしたが、その後、滑走路の中央部や東端が沈下する一方、西端が隆起し、凹凸の差は最大80センチになっている。今年度から数カ年かけて、アスファルトで滑走路をかさ上げする大規模な改修を予定し、工事費の一部11億円の予算を今年度分として確保していた。

ところが、戦没者遺族らから滑走路下の遺骨収集への強い要望があり、方針を転換。現滑走路は応急的な改修にとどめる。本格改修をしてしまうと、今後何十年も滑走路を掘り返すことができなくなり、遺骨収集ができなくなるためだ(09年01月23日付『朝日新聞』)

 

 

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日米合同慰霊祭 

 

現在の硫黄島

 

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☆ 硫黄島で遺族ら50人冥福祈る 都の戦没者追悼式=第2次世界大戦末期の米軍との激戦地で、2万人を超える日本兵が戦死した硫黄島(東京都小笠原村)で13年7月9日、東京都の戦没者追悼式があり、太陽が照りつける厳しい暑さの中、遺族ら50人余りが故人の冥福を祈った。

 戦闘で犠牲となった坂爪梅吉さんの孫で、初めて島を訪れた東京都杉並区の会社役員坂爪美奈さん(44)が遺族を代表して「大戦の教訓を風化させることなく、恒久平和の実現に努力していくことを誓います」とあいさつ。

 1枚の写真でしか見たことがない梅吉さんを思いながら「この地に来てやっと『おじいちゃん』と呼べる。おじいちゃん見えますか。孫の美奈です」と声を詰まらせ語り掛けた。

 遺族らは追悼式後、慰霊碑を巡り、水や花を手向けた。けが人が多く収容されていたとみられる壕も訪れ「サウナみたいだ」と暑さに驚き、当時の故人らの苦しみに思いをはせた。

 都の追悼式は1983年から開かれており、2013年で31回目。

 

 

左;「鎮魂の丘」で祈りをささげる遺族/右;壕の中を歩く遺族

 

☆ 安倍首相「日本の平和と繁栄、しっかり築いていく」 硫黄島で戦没者追悼式=安倍晋三首相は2013年4月14日、硫黄島で戦没者追悼式に出席し、「尊い命を落として祖国のために戦われた英霊に思いを致し、日本の平和と繁栄をしっかり築いていかねばならない」と述べた。

 安倍首相は「祖国の安寧を祈願し遠く離れた家族を案じつつ戦場に散った方々の思いを致すとき、悲痛の思いが胸に迫るのを禁じえません。心からご冥福をお祈りします」と追悼の辞を述べ、献花した。

 硫黄島の訪問には山口那津男公明党代表や栗林忠道大将の孫の新藤義孝総務相らが同行。硫黄島の戦いで使われた豪や戦死した日本兵の遺骨収容作業現場を視察した。同島の戦没者約2万2千人のうち遺骨の収容は半数にとどまっている。

 また首相は、自衛隊の硫黄島基地で「遠く離れた孤島で厳しい環境の中、救難活動や急患搬送、米軍艦載機の離発着訓練の支援などにひたむきに取り組んでいる諸君に首相として深く敬意を表する」と述べ、自衛隊員約150人を激励、午後には現職首相として初めて父島(小笠原村)に入り、離島振興策や地域医療について地元住民と意見交換した。

 なお、現職首相の硫黄島訪問は、2010年12月の菅直人氏2005年6月の小泉純一郎氏についで戦後3人目。

 

 

 

☆ 「戦いの記憶を後世に継承」 硫黄島で合同慰霊式=日米合同の慰霊式典が2013年3月13日午前、開かれた。両国の退役軍人や遺族、政府関係者ら約270人が参列し、日米計約2万9千人に上る戦没者を追悼した。両国の友好親善が目的で、戦後50年に当たる1995年に始まり今年14回目。

 式典では、遺族らでつくる硫黄島協会の西泰徳会長があいさつし「戦いの記憶を後世に正しく(引き)継いでいこう。固い絆で日米のさらなる友好に尽くしたい」と述べた。米国からは戦闘を経験したスノードン元海兵隊中将が「日米の戦士たちの犠牲に対する尊敬は、薄らぐことがあってはならない」と強調した。

 若林健太外務政務官のほか遺骨収集に関する議員連盟「硫黄島問題懇話会」会長の逢沢一郎自民党衆院議員らも参加した。

 

 

☆ 戦後67年「やっと父に会えた」 硫黄島・摺鉢山で追悼=第2次世界大戦末期の激戦地で、約2万人の日本兵が戦死した硫黄島(東京都小笠原村)で2012年1月25日、都の戦没者追悼式があり、自衛隊機で島を訪れた都内の遺族ら50人余が故人の冥福を祈った。

 激しい雨が上がって日も差す中、「鎮魂の丘」慰霊碑前で行われた追悼式。戦闘を指揮した海軍の市丸利之助司令官の孫で、初めて島を訪れた志村昭さん(47)=板橋区=は、遺族代表として「時代が移ろうとも、大戦が残した教訓を正しく次の世代に伝え平和を守らなければならない」と哀悼の言葉を述べた。

 灼熱(しゃくねつ)の地下壕(ごう)の中で水も飲めないまま亡くなった兵士も多く、参列者たちは慰霊碑に花と水をささげ、霊を慰めた。

 追悼行事として初めて遺族らが立ち寄った摺鉢山のふもと。10年、集団埋葬された事実が米資料で分かり、152柱の遺骨が見つかった場所だ。この近辺に戦死した父の部隊があったという宮崎誠さん(73)=練馬区=は、妹から預かった花を供え「やっと父に会えた気がした」と語った。

 山の崖には今も弾の痕が生々しく残る。父を亡くした川幡晃さん(73)=八王子市=は「戦いの激しさが分かる。やっぱり戦争はやっちゃいけない」と話した。

 都の追悼式は慰霊碑を建立した83年度から毎年行っており、今回で29回目。例年は春から夏にかけて実施しているが、本年度は東日本大震災と硫黄島の渇水のため冬にずれ込んだ(12年1月26日配信『東京新聞』)

 

「摺鉢山麓集団埋葬地」を訪れ、石碑に献水する遺族ら

 

☆ 菅首相、硫黄島を訪問 戦没者遺骨収集事業を視察=菅直人首相は2010年12月14日、第2次世界大戦の戦没者遺骨収集事業の視察と慰霊のため、硫黄島を訪問した。現職首相が硫黄島を訪れるのは、戦後60年にあたる2005年の小泉純一郎氏以来で、戦後2人目。与野党の国会議員約25人も同行した。

 硫黄島では第2次世界大戦末期の日米両軍の戦闘で日本側は約2万2千人が死亡し、現在も約1万3千人の遺骨が残されている。菅首相は自ら指示して遺骨収集の「特命チーム」を8月に設置。同チームは米軍の記録を元に集団埋葬地と見られる区域2カ所を確認、発掘を進めている。

 

 

 

☆ 小泉総理、硫黄島戦没者追悼式に出席=2005年6月19日、小泉総理は硫黄島を訪れ、政府主催の「戦没者追悼式」に出席した。

 硫黄島では日本側約21,900人、米国側6,821人が戦死した。戦後60年となる本年の追悼式は、「硫黄島戦没者の碑」の改修が2005年3月に完了したことから、工事完式典を兼ねて行われたもので、日本側遺族関係者等及び米国側を含む来賓約100人が出席して行われた。

 現職総理大臣として初めて硫黄島を訪問した小泉総理は、追悼式で「今後も悲惨な戦争の教訓を風化させず、世界の恒久平和の確立に積極的に貢献していきます」と挨拶、式典後、米兵戦死者のための「将兵の碑」への献花、島内視察を行い、「すさまじい、苛烈な戦闘地だった。戦った兵士を思うと、『二度と戦争をしてはならない』と強く思った。日本軍も米軍も、祖国、家族のため、戦わざるを得なかったのだろう」と述べた。 

 

 

 

 

 

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