☆三木武夫☆
1907(明治40)年〜1988(昭和63年)

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1907(明治40)年3月17日、徳島県土成(どなり)町に生まれる。 1937(昭和12)年明治大学法学部卒業。
明大雄弁部時代 逓信・運輸・通産・外務各省大臣などを歴任。1974(昭和49)年12月、田中角栄首相の失脚で、急遽首相となる。 日本史上最もクリーンな総理大臣(「議会の子」)といわれ、国民の世論に支えられて、前首相の田中逮捕等構造的汚職を意味したロッキード事件を究明したことから党内で「三木おろし」が巻き起こり、党内基盤が弱かったことも相まって1976年、2年で退陣を余儀なくされた。 |
1937(昭和12)年総選挙において30歳(史上最年少)で徳島から当選、以後連続当選、50年間にわたって衆議院議員を務めた。
第2次世界大戦中は日米不戦を訴えていたため、翼賛選挙(東条英機首相招請の各界代表が結成した翼賛政治体制協議会による推薦候補者381名が当選、全議席の8割余を占めた選挙)で非推薦となり、故郷徳島で孤軍奮闘、選挙演説中、官憲による「弁士中止!」の命令の嵐に遭遇しながらも当選を獲得した(非推薦議員)。このときから三木は選挙で「カネを使わない方針」を確立し、一生懸命に演説して廻った。「クリーン三木」の確立である。
敗戦後1946年12月の改正選挙法基づく第1回の総選挙には無所属で出馬、議席を獲得、翌1947(昭和22)年、中道派(左右あるいは保守・革新のどちらにも偏らないことを旨とする政治集団)の国民協同党を結成、書記長として片山哲内閣の逓信(ていしん)=交通・通信行政)大臣に就任する。
国民協同党は、1950(昭和25)年に民主党と合流して国民民主党(1952年改進党と)なるが、三木は翌年1951年に同党幹事長となり、1954(昭和24)年鳩山(はとやま)一郎内閣の運輸相となる。
保守傍流(本流から分かれた流れ。支流)の立場にありながら、1955(昭和30)年の保守合同により自由民主党設立後の1956(昭和31)年、1964(昭和39)年と自民党幹事長を務めたほか、岸信介(のぶすけ)、佐藤栄作、田中角栄の各内閣に入閣する等、常に権力中枢におり、「三(木)角(田中角栄)大(平)福(田)」と呼称され、首相候補になっていた。
岸内閣では科学技術庁長官を務め、1962(昭和37)年の池田勇人(はやと)内閣時代には、自民党組織会長として自民党の近代化に情熱を傾け、いわゆる「三木答申」を行い、佐藤内閣では外相を務めたが、沖縄問題に関して「核抜き本土並み」を主張したことから、首相と対立し更迭された。
だが、1967(昭和42)年12月、沖縄返還にかかわる在沖縄日米軍基地の核兵器が国会で問題になった時、原子潜水艦の日本寄港とあいまって、衆院予算委員会において、佐藤首相は「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まない」(「非核三原則」)と答弁するが、三木のそれは、これよりかなり前のことであった。
1959(昭和34)年警察官職務執行法(警職法)改正や1660(昭和35)年の安保条約強行採決を批判、それに「三木答申」に見られるように、現実主義に立脚にしながら革新保守的路線を歩もうとした三木は、「理想をもったバルカン政治家」との異名(いみょう)をとった。
1968(昭和43)年には佐藤栄作の3選に阻止に挑み、自民党総裁選に立候補したが、敗退した。佐藤4戦阻止でも破れ、さらに、佐藤退陣表明後の自民党総裁選挙でも3度目の敗北を喫した。
この時の総裁選は田中角栄・福田赳夫・大平正芳・三木武夫の4者で争われた(いわゆる「「角福」戦争」)が、盟友関係の大平・田中間で選挙協定が成立、決選投票時には大平票はすべて田中に流れることになっていた。三木は69票を得、仮に三木が福田を支持すれば、総裁選挙の行方は混沌とする状況になった。
総裁(首相)誕生のキャスティングヴォートを握ることになった三木は、田中と大平に、当時、国交がなかった中国に対する刷新政策を要求、これを、田中が受け入れたことから田中角栄内閣が誕生することとなった。田中内閣最大の功績である日中国交回復は、実は三木のこのときの要求がその基礎にあったのである
1972(昭和47)年の田中角栄内閣の閣僚となるが、1974(昭和49)年の参議院選挙に際して田中の金権体質を批判して、選挙後福田赳夫とともに閣僚を辞任する。
田中「金脈」問題で巻き起こる自民党に対する世論の批判の中、田中が退陣を余儀なくされた1974(昭和49)年12月、椎名悦三郎自民党副総裁が「神に祈る気持ちで」三木を自民党総裁に指名(いわゆる「椎名裁定」=「国家、国民のため神に祈る気持ちで考え抜きました。新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君【67歳】が最も適任であると確信し、ご推挙申し上げます」=「椎名声明」)、総裁選挙を経ることなく総裁(首相)に就任(三木内閣)したが、このとき三木が発した「青天の霹靂(へきれき=晴れた青空に霹靂−激しい雷がとどろくさま。英語で「ボルト・アウト・オブ・ザ・ブルー」と言う。霹靂もボルトも雷のことである)とのキーワードは流行語になった。
クリーン三木の真骨頂が、ロッキード事件の究明であった。
「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明した三木は(三木は側近に「ほどほどにという人もあるが、真相を究明して、それで三木内閣がどうなろうとかまわないじゃないか」と語った)、予算委員長の荒船清十郎を後押しして1976(昭和51)年2月16日、事件関係者としてアメリカで名前があがった、田中角栄の刎頸(ふんけい=生死を共にするほどの親密な交わり)の友であった国際興業社長小佐野賢治、全日空社長若狭得治、副社長渡辺尚次、丸紅社長檜山広(ひやまひろ)の証人喚問と、病床にあった右翼の児玉誉士夫を病院で尋問(臨床取調べ)を実現、その全容を明らかにした。
しかし、三木の徹底的な汚職解明の姿勢は、自民党内部の反発と怨念をかもし出した。
こうした中、三木政権生みの親である椎名は、「はしゃぎすぎ」と三木を批判、それを受けて次を狙う福田赳夫と大平正芳は、田中派と連携して福田・大平・田中・椎名・船田・永田の6派閥が「挙党体制確立協議会」を結成して三木退陣を要求、政局はにわかに『三木おろし』が激しくなり、三木は自民党内で孤立、1976年12月5日の第34回衆議院議員総選挙での自民党大敗(保釈中の田中角栄は、新潟3区で16万8,522票を獲得しトップ当選)の責任をとらされ、12月7日総辞職に追い込まれる(12月24日福田内閣誕生)。
総裁(総理大臣)の地位を強引に奪われても、三木の政治に対する姿勢は変わらず、その後も、自民党総裁の選出方法を明確する提案の発表、これが多くの若手議員に支持されて、全自民党員参加による総裁予備選が実現、それは1978(昭和53)年に実施された、選挙結果は、事前の予想に反して、大平正芳が総裁に選ばれた。
結局、「三木おろし」によって国民の批判を強く浴びていた福田赳夫は短期間で首相の座を退く羽目になった。
その大平は、1980(昭和55)年の衆参同日選挙の際、選挙期間中に急死、大平への同情票から自民党は大勝した。
この選挙を契機に三木は、自身の派閥の首領を河本敏夫に譲ったが、三木はその後も自民党の長老として軍縮問題に取り組み、1983(昭和58)年以降、超党派の国際軍縮促進議員連盟の会長を勤めた。
さらに、1985(昭和60)年には独自にまとめた「政治倫理法案」と「選挙浄化特別措置法案」を提示したが、1988(昭和63)年11月14日、心不全のため死去(享年81歳)。
なお、高松出身の三木武吉(ぶきち=1884〜1959。衆議院議員当選11回。第2次大戦後、日本自由党・日本民主党・自由民主党の結成に関与し、鳩山内閣の成立に尽力した)と名前が似ていることから親子と勘違いされるが、血縁関係はまったくない。
東大教授で政治学者の南原繁、丸山真男などと深い親交があり、また、イギリスの経済学者でかる社会改良家のアーノルド・トインビー(オックスフォード大学で経済学と経済史を学び、卒業後同大学で教鞭をとるかたわら社会改良家として実践的な運動を行い、労働組合、協同組合の普及にも努力した)とも親しい関係にあった。
妻は、昭和電工創業者森矗昶(のぶてる)の末娘森睦子(むつこ)。
初めての衆院・内閣合同葬儀が1988(昭和63)年12月6日午後、北の丸公園の日本武道館で営まれた。
東京都渋谷区南平台町に居宅を改造した三木武夫記念館がある。

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