天皇の人間宣言(「新日本建設に関する詔書」)=年頭の詔書(PDF)/官報号外

 

 

1946(昭和21)年1月1日天皇裕仁(ひろひとー当時46歳)が「新日本建設に関する詔書」(年頭の詔書)によって、自らの神格性を否定した宣言が、この「天皇の人間宣言」1月1日付新聞各紙は一面でこれを報じた)である。

 

 ‥‥私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではない‥‥。

 

大日本帝国憲法3条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定されていたが、この宣言は天皇が「現御神(あきつみがみ)(現人神=あらひとがみ⇒人の姿をして、この世に現れた神。天皇をいうではないと断言し、日本民族の優越を説く発想を戒めたが、その真の目的は、当時ほうふつとして上がりつつあった海外からの天皇の戦争責任追求をかわすところにあった。

 

これまで、天皇を神としてあがめ、天皇のために戦争をし、天皇のために死ぬことか美徳(責務)と教え込まれてきた国民は、驚愕をもってこれを受け止めた。しかし冒頭に5箇条の誓文を掲げることに象徴的に見られるように、戦前の天皇制の論理を十分に批判したものではなく極めて不十分なものでしかなかった。

 

この案文は、幣原首相(当時75歳)が英文で起草、藤田侍従長が詔書の形式に整えたといわれる(幣原平和財団編:伝記『幣原喜重郎』)

 

なお、この詔書は前例を破り初めて濁音と句読点がつけられた。

 

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「人間宣言」をした昭和天皇は、その後、全国を「巡幸(行幸)」し、国民の歓迎を受けた。 人々は「咽(むせ)び泣いた。万歳を叫んだ」(戦後最初の侍従長で、全国巡幸の企画・立案・実施の中心人物だった大金益次郎の著作『巡幸余芳』)

 

 「(外国なら)『夫を返せ!』『せがれを返せ!』の悲痛な叫び」があがっただろうと映画監督、伊丹万作は「静臥(せいが)饒舌(じょうぜつ)録」に記した。

    

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 新日本建設に関する詔書

 

1946(昭和21)年1月1日

 

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

 

1.廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

1.上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

1.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

1.舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

1.知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ

 

大小都市ノ蒙リタル戰禍、罹災者ノ難苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ眞ニ心ヲ痛マシムルモノナリ。然リト雖モ、我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。

 

夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實ニ此ノ心ヲ擴充シ、人類愛ガ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ致スベキノ秋ナリ。

 

惟フニ長キニ亘レル戰爭ノ敗北ニ終リタル結果、我國民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ヲ長ジテ道義ノ念頗ル衰、爲ニ思想混亂ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。

 

然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、當ニ利害ヲ同ジクシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ組帶ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非

 

朕ノ政府ハ國民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策ト經營トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時難ニ蹶起シ、當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇徃センコトヲ希念ス。我國民ガ其ノ公民生活ニ於テ團結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ能ク我至高ノ傳統ニ恥ヂザル眞價ヲ發揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ實ニ我國民ガ人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。

一年ノ計ハ年頭ニ在リ。朕ハ朕ノ信頼スル國民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ勵マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。

 

御名御璽

 

  昭和二十一年一月一日

 

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1946年1月1日付『朝日新聞』に掲載された天皇と皇后

 

 

ここに新年を迎。顧みれば、明治天皇、明治の初、国是(こくぜ)として五箇条の御誓文を下し給えり

 

曰く。

 

1.広く会議を興(おこ)し、万機(ばんき)公論に決すべし。

1.上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん=国家をおさめととのえる方策)を行うべし。

1.官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まさらしめんことを要す。

1.旧来の陋習(ろうしゅう=悪い慣習)を破り、天地の公道に基づくべし。

1.智識(ちしき)を世界に求め、大いに皇基(こうき=天皇が国を治める事業の基盤)を振起(しんき=ふるい起こす)すべし。

 

叡旨(えいし=天子の考え)公明正大、また何をか加えん。朕はここに、誓を新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達(ちょうたつ=のびのびしているさま)し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生(みんせい=国民の生活)の向上を図り、新日本を建設すべし。

 

(中略)

 

しかれども、朕は爾(なんじ=主に目下の人に用いられる)等国民とともにあり、常に利害を同じし、休戚(きゅうせき=喜び悲しみ)を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯(ちゅうたい・じゅうたい=社会の構成員を結び付けている血縁・地縁・利害などのさまざまな条件)は、終始相互の信頼と敬愛とにより結ばれ、たんなる神話と伝説とにより生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつみがみ)(現人神=あらひとがみ⇒人の姿をして、この世に現れた神。天皇をいうとし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、延(ひ)いて(さらには)世界を支配すべき運命を有すとの、架空なる観念に基づくものにもあらず。

 

朕の政府は、国民の試煉と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途(ほうと=方法)を講ずべし。同時に朕は、我が国民が時難に蹶起(けっき=勢いよく立ち上がること)し、当面の困苦克服のために、また産業および文運(ぶんうん=学問や芸術)振興のために勇往(ゆうおう=いさんでいく)せんことを希念(きねん)す。

 

(中略)

 

一年の計は年頭に在り。朕は、朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、もってこの大業を成就(じょうじゅ=物事が思いのとおり完成)せんことを庶幾(こいねが=しょき)う。

 

 

1946年(昭和21)年1月3日初めてバルコニーから新年参賀(さんが=皇居へ行って祝意を表すこと)の国民に手を振って挨拶した。天皇の人間宣言の一つのパフォーマンスであったが、以後、新年恒例の皇室の行事となった。

 

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五箇条の御誓文(1868−慶應4−年3月14日)

 

明治天皇が明治新政府の基本政策を意味する五箇条の誓文を誓う

 

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上は、1868年1月に福井藩士で新政府参与(さんよ=王政復古により置かれた官職名で、三職の一。公卿・雄藩(ゆうはん=勢力の強い藩)の代表者から任命されたが、1869【明治2】年に廃止された)だった由利公正(きみまさ)執筆の五箇条の御誓文の草案を、同じ参与の福岡孝弟(たかちか)が修正した縦16.5センチ、横45センチの和紙に墨書もの。このあと木戸孝允(たかよし)がさらに修正・加筆し、誓文は確定したといわれている。

 

福井県は05年7月12日、明治政府の基本方針を示した「五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)」の草稿をオークションにて2,388万8000円で、落札した。草稿は由利家から第三者に渡っていた。木戸孝允が修正した御誓文は、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スシ」で始まるが、由利の起草文では五条目が「万機公論に決し私に論ずるなかれ」だった。由利の民衆に近いスタンスから、政府寄りに変遷した過程がうかがえる。

なお、福井県は、由利公正(きみまさ)の功績を顕彰する目的で、県立図書館などで展示する。

 

1868(明治元)年3月14日、京都御所の紫宸殿(ししんでん)で天皇が公卿(くげ・くぎょう=「公」と「卿(けい)」の総称。公は太政大臣、左・右大臣、卿は大・中納言、三位以上の朝官および参議)・諸侯諸大名を率い、「五箇条の御誓文」を神々に誓う儀式が行われた。皇帝が文武百官(ぶんぶひゃっかん多くの役人)を率いて天地神明に誓うのは、道教(どうきょう中国固有の儒・仏と並ぶ三教の一の宗教で、不老長生をめざす神仙術と原始的な民間宗教が結合し、老荘思想と仏教を取り入れて形成されたものであう)風の儀式である。

 

ここで当時17才の明治天皇が読みあげた「広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スヘシ」以下の五箇条の誓文は、公議世論政治と開明進取の大方針を示したものであったが、これは実質的には、明治維新政府の建国宣言であり、それが、当初の江戸総攻撃予定日(3月15日)の前日(3月14日)に行われたことは政治的には意義深いことであった。

 

 

五箇条の御誓文(1868−慶應4−年3月14日)

 

1.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

 

1.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ

 

1.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメンコトヲ要ス

 

1.旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

 

1.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起(しんき)スヘシ

 

我国未曽有ノ変革ヲ為サントシ朕(ちん)(みずから)ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ

 

 

1.広く会議を興(おこ)し、万機(ばんき)公論に決すべし。

1.上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん=国家をおさめととのえる方策)を行うべし。

1.官武一途(いっと)庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦(う)さらしめんことを要す。

1.旧来の陋習(ろうしゅう=悪い慣習)を破り、天地の公道に基づくべし。

1.智識(ちしき)を世界に求め、大いに皇基(こうき=天皇が国を治める事業の基盤)を振起(しんき=ふるい起こす)すべし。

 

 

なお、濁点が付されていないが、それは濁(にご)りを忌(い)(けがれを避けて慎む)という考えからでたものであり、これ以後、勅令や法律はそうした方式を踏襲することになった。初めて濁点が付けられたの、1946年1月1日の天皇の人間宣言である。

 

 

 五箇条の御誓文が出された1868(慶應4)年3月14日、天皇自身の信条を全臣民に認識させる目的で「国威宣布ノ宸翰(しんかん=天皇直筆の文書。宸筆・親翰とも)」が発表された。

 

国威宣布ノ宸翰

 

朕幼弱を以て猝(には)かに大統を紹き爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪えざるなり。蜜かに考ふに中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くして朝威は倍(ますます)衰へ上下相離るること霄壌(しょうじょう)の如し。斯る形勢にて何を以て天下に君臨せん。今般朝政一新の時膺(あた)りて天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、今日の事朕躬(みずか)ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤(あと)を践(ふ)み、治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背(そむ)かざるべし。往昔列祖万機をみずからし不臣の者あれば自(みずか)ら将として之れを征し給、朝廷の政、総(すべ)簡易にして此の如く尊重ならざる故、君臣相親(したし)みて上下相愛し、徳沢天下に普(あまね)く、国威海外に輝きしなり。然るに近来宇内大いに開け、各国四方に相雄飛するの時に当り、独り我国のみ世界の形勢に疎(うと)く、旧習を固守し、一新の効を計らず。朕徒(いたず)らに九重の中に安居し、一回の安き(ぬす)み、百年の憂を忘るる時は遂に各国の凌悔を受け、上は列祖を辱しめ奉り、下は億兆を苦めことを恐る。故に朕ここに百官諸侯と広く相誓、列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問はず、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波涛を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す、汝億兆旧来の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事と為し、神州の危急を知らず。朕一度(たび)足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜(ふんうん)として、朕が志を為さざらしむ時は、是(これ)朕をして君たる道を失はしむのみならず、従て列祖の天下を失はしむなり。汝億兆能能(よくよく)朕が志を体認し、相率(ひき)ゐて私見を去り、公儀を採(と)り、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。