ウィンストン・チヤーチル

 

Winston Leonard Spencer Churchill (1874〜1965)

 

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<悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす>

 

 

「無益の戦争」

 

ルーズベルト米大統領が、チャーチル英首相に対して「今度の戦争を何と呼ぶべきかについて、一般の意見を求めている」と言ったとき、チャーチルは即座に答えた言葉(『第2次世界大戦』河出書房新社)。

チャーチルはまた、今度の戦争ほど、防止することが容易だった戦争はかつてなかったのだとも記し、さらに、「過去を深く省察することが、来るべき日の手引きとなって『将来の恐るべき場面の展開を統御し得ることを切望する』」と大著『第2次大戦回顧録』で述べている。

そのチャーチルは、ルーズベルト(63歳)よりもスターリン(74歳)よりも前に生まれ、ふたりより長く20世紀を生きた。そして、1965(昭和40)年1月24日、90歳で他界した。臨終に際して、「もうすっかり、いやになったよ」と語った(『チャーチル名言集』講談社)

 

 

 

イギリスの攻撃的なタカ派の反ナチ・反共産主義政治家。貴族の家に生まれ、陸軍士官校卒。

 

イートンと並ぶ名門パブリック・スクール(全寮制私立校)、ハロー校出身の9人中の英首相の1人。1900(明治33)年26歳で下院議員になった。

 

保守党下院議員から自由党へ移り海相、第1次大戦中には軍需相などを歴任。

 

1924(大正13)年保守党に戻り蔵相となり金本位制を復活。

 

1929(昭和4)年以降は野にあってチェンバレンの対独宥和(ゆうわ)政策を批判、39(昭和14)年海相、ノルウェー防衛のためにイギリスが実施した作戦の失敗によるチェンバレン内閣の辞職にともない、1940年5月10日戦時挙国内閣首相となり、厳しい状況のなかで対独戦を耐え抜き、41年ルーズベルト米大統領と大西洋憲章を発表、テヘラン会談、ヤルタ会談に出席、ルーズベルトやスターリンと共に連合国側の戦争指導の中心となった。

 

1945年1月末、チャーチルが、ルーズベルト、スターリンと会談するため、クリミア半島のヤルタへと向かったとき、一行は3機に分乗していた。そのうちの1機が途中で墜落した。さすが豪気のチャーチルも、「奇(く)しき運命の岐(わか)れ道だった」(『チャーチル物語』角川書店)述懐している。

 

 戦時中チャーチルは、ドイツ軍の空襲を避けてロンドン・ダウニング街の首相官邸に近いところに地下施設を設け、「この部屋から、私は戦争を指揮する」と述べているが、今は、「戦時内閣執務室博物館」として残されており、作戦室や会議室の他に、チャーチルの居室があった。そこには、寝泊まりに使ったというベッドが置かれている。

 

しかし対独戦勝利の後、二つの大戦を勝ち抜いた、「戦勝宰相」として臨んだ45(昭和20)年7月26日の総選挙で惨敗、政権を失い野に下る。

 

「大英帝国の顔」チャーチルは自らの選挙には大変苦戦した。生涯の選挙戦の勝敗は16勝5敗。落選するたびに、当選できる選挙区を探して国中を転々としたのである。

 

1946年3月、米国遊説中、フルトンで冷戦の開幕を告げる「鉄のカーテン」演説(『バルチック海のシュテッティンからアドリア海のトリエスまで、一つの鉄のカーテンがヨーロッパ大陸を横切って降ろされている』)を行う(後年これを模倣して中国を取り巻く「竹のカーテン」というキーワードが生まれた)

 

後に1951年総選挙で勝利し政界復帰(第2次チャーチル内閣 1951年〜1955年)。イギリスはチャーチル時代の1952年に核兵器保有する。

 

戦争に明け暮れ、選挙に追われる人生での唯一の楽しみは油絵と戦史の執筆、そして葉巻だった。

 

1953(昭和28)年「第2次大戦回顧録」でノーベル文学賞受賞を受賞。

 

1955(昭和30)年に首相を辞任、63(昭和38)年アメリカ合衆国名誉市民、64年政界を引退。

 

1965(昭和40)124日、脳卒中でロンドンにて死亡(享年90歳)、国葬が行われた。

 

チャーチル曰く、ダービー馬の馬主になるのは、一国の宰相になるより難しい。

 

チャーチル曰く、学歴と能力は無関係、過去の評価で人を判断しない。

チャーチルは、士官学校を受験して2回も落ち下院議員の父親は息子は「出世できないだろう」となげいた

 

チャーチル曰く、「民主主義は最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである」

 

☆ <悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす>。英国のチャーチル元首相の語録の中で、個人的に最も好きな言葉だ

▼数々の名演説を支えた「秘密兵器」は、舌足らずの話し方を隠すために特別につくられた入れ歯だったらしい。なくしてしまったら話ができなくなると、常に手元にスペアを置いていたという▼一つは氏とともに埋葬され、一つは英国の博物館に展示されている。入れ歯を製作した技師に返還されたものもあった。この技師の息子が英競売商キーズに出品し、近くオークションに掛けられる。予想される値段は50万円から65万円だ

▼第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの空爆が続く中、言葉で国民を鼓舞し、勝利に導いたチャーチル。秘密兵器にあやかりたいという政治家もいるのではないか▼最近のニュースで驚いたのは、肝いりで設置された国家戦略室が単なる首相への助言機関に格下げされたことだ。国家戦略局が政治主導で予算や国家ビジョンを策定するという目玉公約は、十分な説明もなく消えた

▼<政治的手腕とは、明日・来週・来月・来年どうなるかを予告する能力であり、かつ、なぜそうならなかったかを説明する能力でもある>(チャーチル『回顧録』)。なぜ、そうならなかったのか。国民にもっと語ってもらいたい(10年7月21日付『東京新聞』−「筆洗」)

 

 英国首相だったチャーチルはノーベル賞をもらっている。政治家だから平和賞と思われがちだが、長大な「第二次大戦回顧録」で文学賞を射止めた。国家存亡の非常時に首相に就任した1940年5月10日、深夜のベッドでの感慨をこう記している

▼「過ぎ去った人生のすべては、ただこの時、この試練のための準備にすぎなかったという気がした」。ときに65歳。戦端は開かれ、ヒトラーは欧州を席巻しつつあった。命運の尽きかけた英国を、このリーダーの不退転の信念が救うのは歴史の示すところである

▼野田首相が年頭の会見でチャーチルを引き合いにしたのも、いまの国難と不退転を重ね合わせてのことだろう。災害に加え、国の借金はとうに危険水域にある。社会保障は揺らぎ、このままでは日本は根腐れしかねない

▼野田さんの思いもチャーチルの就任時に引けは取るまい。だが数々の演説で民衆を率いた名宰相と違い、胸に届くものが乏しい。きょうからの通常国会、まずは施政方針演説で、どれだけ言葉を響かせられるだろうか

▼もっとも自民党にしても、「偽りの政権に終止符を」などと解散を叫ぶばかり。国会は荒れ含みといい、貧寒ぶりに昨今は議会制民主主義そのものへの失望が膨らんでいる

▼きょうはチャーチルの47回目の命日になる。享年90の辞世の言葉「もうすっかり、いやになったよ」は最後のユーモアでもあったろう。同じ言葉が政治への嘆き節となって口にのぼる。そんな日本ではやりきれない(12年1月24日配信『朝日新聞』-「天声人語」)

 

 チャーチル=葉巻に蝶(ちょう)ネクタイ。そしてVサインといえばやはり、この人だ。英国の名宰相として名を残すチャーチル。Vサインは「勝利」を意味するビクトリーの頭文字。第2次世界大戦中、ナチスドイツとの戦いで国民を鼓舞するために広めた。

▼強い意志と指導力で、大戦を勝利に導いた。チャーチル研究家の冨田浩司氏は危機における政治では「超一級品」とし、そうした時の指導者に求められる資質のひとつに国民との「コミュニケーション能力」を挙げている(「危機の指導者 チャーチル」)。Vサインもさぞかし国民との対話に貢献したのだろう。

▼「ネバー・ネバー・ネバー……」。決して屈しない。野田佳彦首相は年初来、このチャーチルにご執心のようである。大戦時の有名な演説を引用しながら、消費増税を含む社会保障と税の一体改革にかける意気込みを新たにしている。首相は果たして、勝利のVサインといけるのか。きょうから通常国会が始まる。

▼かのチャーチルは「国民の意思は固くて、無慈悲なもの」と理解しつつも、民主主義を上回る政治形態はないと信じていた。なにより国民との一体感を重んじた。指導者が意志を貫くなら、粘り強く国民への説得を。そう諭しているようにみえるチャーチルが他界したのは1965年。きょうは命日である(12年1月24日配信『日経新聞』−「春秋」)

 チャーチル伝の文献

☆「チャーチル増補版」(河合秀和・中公新書)

 ☆「少年チャーチルの戦い」(シリア・サンズ・集英社)

☆「祖父チャーチルと私」(W・S・チャーチル・法政大学出版局)