由美子ちゃん事件

 

米軍〈海兵隊〉よる少女〈小学生〉強姦事件(95年9月)

沖縄少女暴行事件(08年2月)

 

悲惨な沖縄戦を経て、敗戦後10年を経過した1955(昭和30)年9月3日、沖縄本島中部にある旧石川市(同市はもともと2000人ほどの静かな農村であったが、敗戦後は収容所ができ、3万人以上にもなっていた。2005年4月1日、2市2町が合併して「うるま市」【地図】になった)、市内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、その日の夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となった。沖縄の夏は午後8時まで明るく、当時の沖縄の住宅は台所を別にすると、1間か2間しかなく、それゆえ、日が暮れるまで子どもたちは表で遊んでいることが多かった。

 

由美子ちゃんは、翌日死体で発見された。犯人は、由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てたのである。由美子ちゃんは、唇をかみしめて、右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。

 

1955年9月4日付『沖縄タイムス』夕刊は以下のように報じた。

 

「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、殺されているのが発見された。4日朝、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、8才から10才位と思われる少女死体が、あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵2名が発見、MPmilitary police=米軍憲兵隊を通じ嘉手納派 出所へ届出た。少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、口をかみしめたまま死んでいた」。

 

いわゆる「由美子ちゃん事件」である。由美子ちゃんの死体は、まるで鋭利な刃物で下腹部から肛門にかけて切り裂かれたようだった。

 

犯人は、事件から1週間後に逮捕された。

 

米軍情報部は1955年9月9日夜、米国民政府新聞課を通じて公式発表を行い、9月10日付『沖縄タイムス』は以下のように報じた。

 

「殺人、強かんおよび少女誘拐の3つの罪名で第32高射砲隊B中隊アイザツク・J・ハート軍曹に対する起訴状が提出された。軍憲兵隊当局は事件発生以来これまで民警察が発揮した優れた提携と協力に対して高く賞賛している。なお、現在ハートに係る軍事裁判については目下、予備審査の措置が講じられている」。

 

琉球立法院(現沖縄議会)は、「鬼畜(きちく=鬼と畜生。転じて、残酷で、無慈悲な行いをする者にも劣る残虐な行為」と抗議決議をし、米軍は厳罰に処罰するとの声明を発表したが、沖縄での占領意識を色濃くもった米軍の兵士によるレイプ事件の数は異常で、1972年の沖縄の本土復帰から2002年までの30年間に日本全国で検挙されたすべてのレイプ事件166件中の111件が、沖縄でのアメリカ兵によるものであった。

 

しかも、沖縄でのアメリカ兵によるレイプ事件は、少女がターゲットになることでもその異常さが顕著である。アメリカ兵にはロリコンの変質者が多いというわけではなく、少女なら簡単に騙して車に乗せることができるという、ただ単に「やりやすい」ということである。

 

鬼畜米兵は、同年12月6日アメリカの軍事法廷で「死刑」の判決を受けた(当時の沖縄は治外法権国際法上、外国元首・外交官・外交使節など特定の外国人が現に滞在する国の法律、特に裁判権に服さない権利】下で民主的な裁判が行われず、また取り調べの状況などもほとんど日本側は知る余地がなかった)が、その後、アメリカへ身柄を送られて、45年の重労働刑に軽減された。

 

驚くなかれ、由美子ちゃん事件の起きた1週間後に再び、9才の女の子が米兵によってレイプされた(第2の由美子ちゃん事件)

 

すなわち、同年9月10日夜12時頃、具志川村明道5班の農家宅(46才)の戸口をこわして開けようとする物音に、夫妻が気づき、夫が戸を開けると米兵がクツのまま座敷に上がり込み、女を出せと脅迫、いないと答えたがしつこく迫るので驚いた夫は11歳の長女を裏口から逃し、小学2年生の9歳の次女と6歳の長男、4歳の次男の3人を6畳間に寝かせたまま隣人の応援を得るため出たすきに、次女が拉致されていた。夫婦は隣人と付近を探していたところ、約20分後次女が下腹部に血流しながら泣いて帰って来たのである。

 

当然のことながら、沖縄の各地では次々と怒りの声があがり、「子どもを守る大会」が開かれた。この事件をきっかけに結成された「子どもを守る会」では、那覇で緊急会議を開き第2の由美子ちゃんを出さないために運動の方針と目標を協議、9月16日に事件の地元石川市で開催された住民大会1000人が集まり、以下のような裁判の公正を訴える声明を発表した。

 

「この種の事件は人種国籍の如何を問わずいささかの酌量の余地なく死刑を以て処罰すること。治外法権を撤廃して琉球人に対する外人の部隊外での事件は民裁判で処刑する。公判の際は沖縄側の法務官を立ち会わし然して裁判現場の録音は全住民に放送聴取させること。米国が真に正義、人道、民主の歴史的伝統を誇る国なら、すべからく軍規を粛清し沖縄住民の福祉増進のために駐留するという本義に徹すること」。

 

1995年9月4日には、3人のアメリカ兵が小学生の女の子をレイプする事件が起きた。赤いランドセルをしょって小学校に通ってる少女が、体の大きな3人ものアメリカ兵に拉致されて、順番に犯されたのである。

 

「基地軍隊を許さない行動する女たちの会」の『戦後・米兵による沖縄女性への犯罪』によると、米軍によるレイプ数は1945年から1997年までに、およそ180件で、そのうち20才に満たない少女たちが22人、なかには生後9ケ月の乳飲み子まで含まれていた。

 

由美子ちゃん事件のショックが癒えぬ石川市で、1955年6月30日午前10時30分、同市宮森小学校にジェット戦闘機が墜落するという大惨事(宮森小学枚ジェット戦闘機墜落事故)が発生した。

 

事故による死者は17人、重軽傷者121、建造物全焼(民家17棟、公民館1棟、3教室)、半焼(民家8棟、2教室)に達したが、当時の教師は、「すべて、アッという間の出来事であった。ガソリンをかぶった子どもたちが、全身火だるまになって水道の蛇口のいたるところで水をかぶりながら、先生たすけて、 お父さん、お母さん、戦争だ、戦争だと泣きわめきながら、1200人余の子どもたちは校庭を駆けめぐり助けを求めていた」と証言している。また、「黒煙が石川市上空をおおい街中が焼けるのではないかと市民は半狂乱におちいった。軍民全消防、警察が出動して約2時間後に火災をくい止めた。米軍は事故の完全補償 する旨発表したが、その解決は、立法院石川事件対策特別委員会や琉球政府の努力にもかかわらず難航、結局、賠償問題の完全解決には事故後3年近くもかかり、児童に対する賠償額は、死亡者が約4500ドル、重傷者が最低2300ドルから最高5900ドルが支払われた」にすぎなかった(『石川市制施行50周年記念・市勢要覧』)

 

 

米兵の女性暴行防いだ「ボンベの鐘」 沖縄の苦難物語る(2016年9月5日配信『朝日新聞』)

 

「警鐘」として使っていたボンベと元区長の与儀正仁さん=沖縄県北谷町

 

 沖縄県各地の集落に、古びたボンベがつり下がっている。戦後間もない時期から、時刻を知らせる鐘として鳴らされたが、当時、米兵らによる女性への暴行が頻発したため、危険を知らせる「警鐘」の役目も果たした。ボンベは、今につながる県民の苦難の歩みを物語る。

 沖縄本島中部、嘉手納基地に近く、米軍関係者が多く住む北谷(ちゃたん)町砂辺。地区の公民館の駐車場に、長さ約1・5メートルの黒っぽいガスボンベがつり下げられている。郷土史に詳しい与儀正仁さん(83)は「これを打ち鳴らし、基地に連れ込まれそうになった女子中学生が難を逃れました。救いの鐘です」と語る。

 与儀さんによると、1955年に米兵の犯罪から身を守ろうと、基地で働く地元住民が米軍の使用済みボンベを調達して設置したという。その年、石川市(現・うるま市)で6歳の少女が米兵に暴行、殺害された事件が起き、県民に強い衝撃を与えた。今のボンベは与儀さんが区長だった60年代に取り換えた「2代目」だ。

 沖縄戦での旧日本軍の組織的戦闘は45年6月23日に終結。住民らは米軍が各地に設けた収容所に送られた。集落への帰還はその年から始まった。米軍が接収した土地の返還は、地域によって時期が異なり、砂辺では54年から段階的に行われ、住民も徐々に戻ってきた。

 米軍基地や駐屯地が近くにあった地域の住民らは、米兵の暴行におびえて暮らした。48年、当時の知事が米軍の参謀次長宛てに、一部の米軍人が「昼夜の別なく」「毎日の如(ごと)く」各地の集落に侵入して危害を加えるとして、対応を求める要請書を出している。

 住民たちは各地で自警団をつくり、集落の入り口などに鐘を据え、米兵の姿を見ると打ち鳴らした。沖縄市戦後文化資料展示室の入り口には、市内でかつて使われたボンベの鐘がある。

 担当職員によると、物資に乏しい戦後、打ち鳴らす物がなく、ボンベが鐘代わりに利用された。防犯以外にも、時間を知らせたり集合の合図を送ったりする目的で使った地域もあったという。鐘は沖縄本島や離島の各地に設けられたが、全体の数は把握されていない。

47年9月のある夜、沖縄市安慶田(あげだ)の仲村春孝さん(88)は、乱打されるボンベの鐘の音で目を覚ましたことを覚えている。青年団長だった仲村さんらが女性が襲われている現場に駆けつけ、土の塊を顔に投げたり、棒でたたいたりして何とか米兵を取り押さえた。しかし、民家にいた女性は強姦(ごうかん)され、銃で殴られて死亡。「肌着が血で真っ赤だった。大変な時代だった」と仲村さんは振り返る。

 戦後すぐ、収容所内でも同様の悲劇が繰り返された。県史には、北谷町の与儀さんの母親、カマさんが45年、本島中部の収容所で体験したことが証言として掲載されている。

 イモ掘り作業に行っても、若く見える女は、すぐ引っ張られていました。もし男の人が助けようとすると、アメリカーは銃を持っていて、撃つんですから、どうにもなりませんでした。ほんとに撃ち殺すんですよ

 石川市(現・うるま市)にあった石川収容所にいた山田千代子さん(81)=豊見城市=は、鐘が鳴ると急いで家族のいる仮設テントに戻り、隠れて息を潜めた。

 うるま市で女性を殺害したなどとして、殺人や強姦致死などの罪で6月に元米兵が起訴された事件。報道を聞くたび、あの鐘の音を思い出すという。「米軍を恐れながらの暮らしで、女の人には多くのふびんや哀れがあった。それが今も続いているのです」

■「屈辱の記憶、呼びさまされる」

 戦後の行政機構「沖縄民政府」が米軍に対策を求めた文書によると、1946〜49年度の米軍構成員による沖縄の女性への強姦(ごうかん)事件は109件。女性をめぐる犯罪は殺人、住居侵入などと合わせ1030件に上る。

 沖縄県警によると、72年の本土復帰から2015年末までで、米軍関係者の強姦事件の検挙数は129件を数える。

 復帰前、沖縄側に米軍犯罪をめぐる捜査権・裁判権はなく、逮捕も現行犯などに限られる「治外法権的」な状況にあった。

 琉球大学非常勤講師の宮城晴美さん(沖縄女性史)は「表に出ている事件は氷山の一角ですらない」と指摘する。「戦中や戦後、女性の暴行被害を身近で見聞きした人は多い。新たな事件で、県民の過去の屈辱の記憶が呼びさまされ、米兵や基地への蓄積された怒りがわき起こってくる」と話す。